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瘋癲老人癌顛末記 弐

 これは好き勝手気ままに半生を過ごした瘋癲老人の晩年に見つかった癌の顛末記。いろいろ紆余曲折はあるもののまだ治療は続いているし、いつ大きな転移がおこるかも知れないし、いつ急変するかもしれない。手術前に余命半年と宣告された年寄りの残りの人生の顛末。例えいのちを永らえたとしても、それほど長くはない。する事もないしなぁ。どうせならキーボードが打てなくなるまで、気ままにその顛末を記しておこうかと思った次第
 因みに瘋癲とはウィキペディアでは、

○精神的な疾患。→ 精神疾患

○定職を持たず街中などをふらつくこと。またはその人。→ 無職

○1960年代から1970年代の日本における和風ヒッピーの俗称「フーテン」

という事だそうだ。22歳からはほんと、定職に就いたことなかったもんなぁ。よく生きてこられたもんだ。

【2021年秋最初の覚悟 その2】

 11月8日に、都合4日かけての精密検査を終えての担当医師の消化器内科のM医師から結果報告を聞く。食道の上部にある小指大の腫瘍と胃の直前にある握り拳大の結構大きな腫瘍の写真を見せてもらう。そして一枚の4A用紙を見ながら手書きの図で説明してくれた。

 まずガン治療の方法について話す。最初は摘出する外科治療、次に放射線をあてての治療、そして抗がん剤での化学療法。順番にペケマークをつけもうこれしか治療法はありませんと言う結論は抗ガン剤での化学療法だ。結局はもう術はないという診断だ。すべがないという事は、最後のその時が来るのをただただ待つだけのように聞こえた。それはもう治療ではない。

 喉の少し下あたりにある小指大の腫瘍の原因ははっきりしている。出来たのは最近。7月くらいからの暴飲喫煙だ。コロナの影響で約一年前から仕事の発注はなくなり、そのコロナ騒動もいつ終わるかわからない先が見通せない状況。仕方がないのでほぼ毎日サブスクの外国映画や外国テレビドラマばかり明け方まで見ていた。見ながら飲むのは最初はビールだったのが、日本酒からバーボン水割りに、さらにエスカレートしてバーボンのストレートをボトルが空くまで飲む日々。肴の代わりにタバコもチェーンスモークというありさま。そんな日々がほぼ毎日続く。

​ とうとう9月になると喉の下あたりに違和感、そして軽く咳き込むようになった。時節柄コロナかとも思ったが熱はないのでコロナではなかった。

​ 問題は胃の直前にできた食道の大きな腫瘍。医師によると5年から6年くらいかけて大きくなった腫瘍であろうという。5、6年前というと私が長らく在籍した劇団を辞める時期の前後にあたる。その辞める前のストレスが始まりなのかどうか。それは定かではない。ともかくその頃に腫瘍の種は蒔かれていたわけだ。

​で、これが手書きの検査結果報告書と腫瘍の内視鏡画像。

病名は食道ガンと書かれ、あとリンパ節転移、肺転移とある。その当時肺に転移している事は知らなかった。

​リンパ節に転移しているのは、摘出手術をした後も12,3カ所に転移している事は医師から告げられていたが・・・。

済生会説明書02.jpg

◎同じく手書きの治療法の説明書。殴り書きです。1.と2.にバッテンが打たれ、3.に二重丸。抗ガン剤治療プラス緩和治療とある。​

済生会説明書01.jpg

 結局、夏頃からの暴飲暴煙で咽頭の辺りに腫瘍が出来たわけだが、この腫瘍の症状がなければ胃のすぐ直前に出来た握り拳大の大きな腫瘍を見つける事も出来なかったわけだ。その大きな腫瘍は痛みも症状も何もなかったから、おそらくもっと肥大して手遅れ状態になってから発見されたかもしれない。それが良かったのかどうか。

食道腫瘍01.jpg

 上が胃直前の食道にできた握り拳大の腫瘍。

​左側の部分がそうだ。右側が本来の何もない食道。きれいな半円だ。

喉の辺りに出来た小指大の腫瘍写真は手元にないが、写真自体は見せてもらった。

 そして余命半年の宣告を受け入れざるを得ないまま、自宅に戻るも前述したように今まで一度も入院生活などした事のない医療、病院、対処の無知な老人にはまずは何から手をつけて良いかわからなかった。

 まずは、今の仕事関係の事が頭に浮かんだ。いろいろな人に仕事を依頼し、受注し、請求書なども送付してと、現在進行形の出来事をスムーズに移行しなければいけない。もしも、急に入院となれば何の対策もとれなくなるからそれが一番気にかかった。

 次に、入院となれば今の仕事も続けられない、どれだけ入院しなくてはならないのか、などいろいろな事が不明。最悪の場合を考えておかなければならない。最悪あと半年しか生きられないんだ・・・、というような感傷というか、どうしようどうしようというような混乱とかはなかった。しなくてはいけない事の方が頭の中で占めていたからだ。とにかくしなくてはいけない事や手続き、対処、届けなどなどいっぱいだったのは間違いない。

 そういう人生の一大事的な出来事に出くわした無知な老人に、相談できる近所の方が身近にいたのは有り難かった。草野球仲間でもあるDさんのおかげで、そういう様々な事の大半が処理できたのは本当に有り難かった。感謝感謝である。

 そしてもうあと半年という余命の事は、ごくごく近い人だけにしか知らせない事とした。もうあと半年で俺は死ぬんだ!ワーッ!と叫び出すような精神が暴れ回るような不安定状態になる事はなかった。割と淡々としていたなぁ。もうあと半年なんだという事は仕事関係の人間と、一部の人だけに伝えた。ただ伝えるうちに号泣ではないがなぜか涙した。淋しかったのかな。ただ総じて淡々と心は穏やかだったのは自分でも不思議。もう充分好きな事して生きてきたという思いがあったのからかもしれない。

 

 それが最初の覚悟だった。

【2021年11月 化学療法】

 余命半年の宣告を受けてからほぼ一週間後の11月16日に、S病院中津の消化器内科での化学療法、つまり抗がん剤の24時間点滴入院となった。後からわかった事だが、私が診断を受けたのは消化器内科。消化器内科という事は並行して消化器外科があるという事なのだが、病院音痴の私にはそういう区別もつかなかった。ともかく何も知らないので医師の言う通り従うしかなかった。
 医師によると約一週間入院して、その後三週間自宅で養生、これを3回繰り返す。その後経過観察して変わらなければまた同様に一週間の入院点滴、そしてまた三週間自宅療養というのを繰り返す。これはその時が、つまり徐々に弱るか転移したりして、死期が迫るまでそれを繰り返すという事だ。もし痛みが伴い苦しいような病状なら緩和ケアという段階の終末治療に移行するみたいだった。
 今回は11月22日までの一週間の入院だ。入院までの間に前述したように近所の相談できるDさんに頼り、その後の事などの段取りをつけた。有り難かった。もうこれからは今までのように仕事は出来なくなるだろうし、生活の事や病院代の事もある。

 抗がん剤は5FUという植物系由来の薬剤を使用との事。これは病院にいる間は看護師さんもいるしすぐ対処もしてくれるし困るという事はないが、退院後すぐは、まず食欲がなくなる。それはまだいい。次に下痢、嘔吐が激しくなるなどの副作用が出る。何より外敵から身を守るキラー細胞などの免疫機能が落ちる事。出血などしたら凝固する血小板の働きも機能不全となるという事なので注意しなければならない。副作用として脱毛は良く聞くが、それは二ヶ月後くらいから現れるらしい。確かに完全に脱毛して眉毛も睫も頭髪もなくなったのは、三回目の入院が終わった後くらいだった。特に強く言われたのは、免疫機能も落ちるので鼻血も含め怪我など出血しないようにという事。

 ともかくも人生初めての入院生活を終えて6日後の11月22日に退院。特に体力が落ちたという事もなく普通だったが、下痢がひどかった。そしてまるっきり食欲がなく、無理に食べてももどすばかり。気力も落ち、何をする気も起こらずただひたすら横になりたいという毎日。そして4、5日ほどたった頃ようやく下痢が治まり、食欲も戻り、以前のような普通の状態に戻る。それが約三週間。そういうサイクルでほぼほぼ一ヶ月。これの繰り返しが続く治療。その普通の状態に戻った自宅療養期間に、Youtubeにアップするバイクのツーリング動画を撮影したり、草野球を楽しんだり、徐々に身の回りを整理する終活をしたりと、結構忙しい日々だった。

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