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 ​瘋癲老人癌顛末記 壱
 これは好き勝手気ままに半生を過ごした瘋癲老人の晩年に見つかった癌の顛末記。いろいろ紆余曲折はあるもののまだ治療は続いているし、いつ大きな転移がおこるかも知れないし、いつ急変するかもしれない。手術前に余命半年と宣告された年寄りの残りの人生の顛末。例えいのちを永らえたとしても、それほど長くはない。する事もないしなぁ。どうせならキーボードが打てなくなるまで、気ままにその顛末を記しておこうかと思った次第
 因みに瘋癲(ふうてん)とはウィキペディアでは、

○精神的な疾患。→ 精神疾患

○定職を持たず街中などをふらつくこと。またはその人。→ 無職

○1960年代から1970年代の日本における和風ヒッピーの俗称「フーテン」

という事だそうだ。22歳からはほんと、定職に就いたことなかったもんなぁ。よく生きてこられたもんだ。

【2021年秋最初の覚悟】

 それは喉が少し引っかかる感じから始まった。時期が時期だけにコロナか?とも思ったが、耳鼻咽喉科へいっても少し腫れてますねと言うだけで特にどうという事も言われなかった。エヘン、エヘンと咳が長らく続くので今度は消化器内科のクリニックへ。
すぐさま内視鏡検査で腫瘍が見つかる。その腫瘍を精密検査に回しますと言われ、数日後に結果を聞きに医院へ赴く。
2021年10月半ば、進行性食道がんのステージ4という結果だった。そこから先は市民病院か大きな病院での治療となるらしい。私は子供の頃から大病とか骨折とかも含めて入院なるものを経験した事がない。そういうご託宣を受け、何がどうで、どうしたらいいのかさっぱりわからない。初めてだらけの、だが生死に関わる大変な事態になっているのだという事だけはわかる。まるで初めて交通違反ですと言われ切符を切られた小学生みたいなもんだ。とりあえずは医者の言う通りにしか動けない。何せなんの知識もないのだ。

 とりあえず市民病院を勧められたが、以前検査を受けた事がある済生会N病院に変えてもらった。が、その時は知らなかったのだが、消化器科でも内科と外科があるのだ。そのクリニックは消化器内科。自然消化器内科への紹介状となる。これも後から知った知識だが、内科は化学療法を、外科は手術や放射線で対処するというように分かれるらしい。
 当然私はその病院で消化器内科での治療となった。まずはいろんな検査を受ける。


 11月8日に、4日かけての精密検査を終えての担当医師の消化器内科のM医師から結果報告を聞く。食道の上部にある小指大の腫瘍と胃の直前にある握り拳大の割と大きな腫瘍の写真を見せてもらう。そして一枚のA用紙を見ながら手書きの図で説明してくれた。
ガン治療の方法についてまず話す。摘出する外科治療、次に放射線をあてての治療、そして抗がん剤での化学療法。順番にペケマークをつけ最後はもうこれしか治療法はありませんと言う。
抗がん剤での化学療法だ。結局はもう術はないという診断だ。術がないという事は、最後のその時が来るのをただ待つだけという事だ。治療ではない。延命処置というだけの事なのだなと感じた。

 喉の少し下あたりにある小指大の腫瘍の原因ははっきりしている。7月くらいからの暴飲喫煙だ。コロナの影響で約一年前くらいから仕事の発注はなく、いつ終わるかわからない状況。仕方なしにサブスクの外国映画やテレビドラマばかり明け方まで見ていた。初めは、バーボンの水割りだったのが次第にエスカレート。ストレートで5杯も6杯も飲み、タバコもチェーンスモーキングというありさま。そんな日々がほぼ毎日続く。とうとう9月になると喉の下あたりに違和感、そして咳き込むようになった。時節柄コロナかとも思ったが熱はなかったのでコロナの疑いはなかった。
 問題は胃の直前に出来た食道の大きな腫瘍。医師に聞くと5,6年ほどかけて大きくなったであろうという。5年前というと私が長らく在籍した集団を辞めた頃だ。その頃に腫瘍の芽は出来ていたのだ。癌や胃潰瘍などの原因は殆どがそういう精神的なストレスらしい。

 一通りの説明を終えたM医師は、食道ガンで進行性末期ガンステージ4であると宣告してくれた。で、私は黙って聞くしかなかったが、最後に聞いてみた。
「ええと、世間でよく言われる余命何年とか何ヶ月というやつでいうと私の場合は・・・?」
「半年です」
「はぁ・・・」
そうとしか言えない。
もう後はそのひっくり返しようがない事実を受け入れる事しかないわけだ。
医師はもうあとは黙ったままで、もう言う事はない、もう終わりですよ、お帰り下さいとでも言わんばかり。これはそう見えたわけでそう言ったわけではない。
 私ももうそれ以上聞く事もないし、というか何を聞いて良いのかもわからないのだ。病や病院の事、もしもそうなった時の事など何もかもがわからない事だらけ。誰に相談して良いのかも、こういう事態になった時の公的な機関は何があるのかどこにあるのか、とにかくさっぱりわからないだらけ。

 18歳から家族と一緒に過ごした事はないし、親戚や家族、身内のものに病気や死んだ人もいなかったし、いやいたとしても身近にそんな経験がなかったのだ。病院にもいろいろあって、そうなったら公的な手続きはどうなるのかだとか、どこにどんな病院があるのかだとか本当になにもわからない、知らない事だらけ。
 ただ、これだけははっきりわかった。もう残された時間はあと少しだと言う事だけは間違いない。会わなければならない人には会っておく事。その時に備えて事前に処理しておく事の一覧表。今継続中の仕事の支払い関係や請求書の整理や会計処理などなど。
 そしてもうあと半年の余命の事は、極々近い人にだけ知らせる事。なぜかもう半年しかない、うわぁーっと精神が暴れ回る事はなかった。不思議と淡々としていた。
 本当に淡々としていた。ただ一部の人にそのことを伝えた時にはなぜか涙した。ただ淡々と心は穏やか。もう充分好きな事して好き勝手生きてきたとの思いがあったからかもしれない。
 それが最初の覚悟だった。


【化学療法】

 余命半年の宣告を受けてからほぼ一週間後の11月16日に、S病院中津の消化器内科での抗がん剤の24時間点滴入院となった。医師によると約一週間入院して、その後三週間自宅で養生、これを3回繰り返す。その後経過観察して変わらなければまた同様に一週間の入院点滴、そしてまた三週間自宅療養というのを繰り返す。これはその時が、つまり徐々に弱るか転移したりして、死期が迫るまでそれを繰り返すという事だ。もし痛みが伴い苦しいような病状なら緩和ケアという段階の終末治療に移行するみたいだった。
 今回は11月22日までの一週間の入院だ。入院までの間に前述したように近所の相談できるDさんに頼り、その後の事などの段取りをつけた。有り難かった。このDさんがいなかったら、どうしたらいいのかさっぱりわからなかっただろう。もうこれからは今までのように仕事は出来なくなるだろうし、生活の事や病院代の事もある。

 抗がん剤は5FUという植物系由来の薬剤を使用との事。これは病院にいる間は看護師さんもいるしすぐ対処もしてくれるし困るという事はないが、3週間の退院後は、まず食欲がなくなる。それはまだいい。次に下痢、嘔吐が激しくなるなどの副作用が出る。何より外敵から身を守るキラー細胞などの免疫機能が落ちる事。出血などしたら凝固する血小板の働きも機能不全となるという事なので注意しなければならない。脱毛は良く聞くが、それは二ヶ月後くらいから現れるらしい。確かに完全に脱毛して眉毛も睫も頭髪もなくなったのは、三回目の入院が終わった後くらいだった。免疫機能も落ちるので鼻血も含め怪我など出血しないように注意して下さいなどと言われた。

 ともかくも人生初めての入院生活を終えて6日後の11月22日に退院。特に体力が落ちたという事もなく普通だったが、下痢がひどかった。そしてまるっきり食欲がなく、無理に食べてももどすばかり。気力も落ち、何をする気も起こらずただひたすら横になりたいという毎日。そして4、5日ほどたった頃ようやく下痢が治まり、食欲も戻り、以前のような普通の状態に戻る。それが約三週間。そういうサイクルでほぼほぼ一ヶ月。これの繰り返しが続く治療。その普通の状態に戻った間に、Youtubeにアップするバイクのツーリング動画を撮影
したり、草野球を楽しんだり、徐々に身の回りを整理する終活をしたり、としなければいけない事は目白押し状態だった。

 
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